旧石器捏造事件周辺 小まとめ
旧石器捏造事件周辺 小まとめ
どんな事件?
考古学研究の捏造
本質と構造のポイント
①岡村理論の理論・踏査・発掘・整理研究
②岡村をだますことのできる考古学的実力
前半と後半の捏造の違い
岡村理論→梶原形態変形論
(モデルチェンジ)
*前半…76年岡村論文abc(仮説)
→座散乱木遺跡3次調査と馬場壇A(責任者は岡村)
*後半…使用痕分析
(座散乱木遺跡はメーア遺跡のコピー?…出土物と使用痕分析)
メーア遺跡(ベルギー)
↓
キーリー1979年12月英文論文
↓
芹沢(キーリーに師事)
↓
梶原(芹沢に師事)
↓
座散乱木遺跡1979年10月発掘
※梶原の使用痕分析は、出来すぎ(普通は3割くらい。ここは7割くらい)
※中野の脂肪酸分析はインチキ
※真鍋の熱残留磁気分析はデタラメ
埋めた石器が発掘責任者の理論に沿い過ぎ。
責任者がチェンジすると、埋める石器もモデルチェンジした
*責任者の理論に合う石器を、そのための場所に埋めることは藤村には不可能。
**藤村は石器の説明すらできない
**仏文や英文の最新の論文をどうやって読んだのか?
(仏文は入手不可能に近い。英文は発掘より後に発表されている)
*理化学的検証はデタラメ(インチキと牽強付会)
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【前提】
・相沢は、ローム層中の旧石器について複数の文化相を持つ石器文化の存在という革新的な仮説を抱いていた。
・捏造事件の原点は、岩宿遺跡を発掘しながらも、当の相沢忠洋自身が不自然に思っている杉原発掘のハンドアックス(握槌)発掘?。それが10万年前という年代観。
※日本原人の石器という明らかな目的性
・杉原。四面楚歌。
・ハンドアックス問題→斧形石器→刃部磨製石器とされ、無理やり年代が合うように解釈され・・・現代へ。問題をすり替えられ、学説をシフト。不自然さが埋没された
【不審点】
①杉原発見のハンドアックスは、現代の後期旧石器文化において、それと同じ地層からこれまで数多く発見されている「局部磨製石斧」とは、形態・加工技術が異なる石器。類例は2006年現在、岩宿のみ。
②杉原ハンドアックスは出土当初から摩耗が非常に激しく、ほかの出土石器と遺存状態が著しく異なる。年代観と石器型式が一致しないという大きな問題を含む。地層から言えば後期旧石器時代の初頭の石器文化。石器型式からいえば前期旧石器。
→ハンドアックスの存在は、石器からいって、岩宿に前期旧石器の存在を示唆するのか?
日本列島を含むアジア地域にハンドアックスを含む独自の後期石器文化が存在したのか?
③相沢発見の部分磨製石斧は、〔杉原ハンドアックスと〕同遺跡の同地点から発見されたが、1や2の齟齬がなく、形態・技術・遺存状態など他出土の後期旧石器時代初頭にある部分磨製石斧そのもの。
・岩宿は東大人類学の山内清男(すがお)に否定されていた(山内に話を持ってこなくてすねた?)
【そして…藤村によって】
・藤村によって、芹沢長介の主張は遺跡を通してことごとく現実化された。
・岩宿発見経緯について、杉原・岡本、芹沢・相沢の奇妙な斉一性と微妙な不一致
・岩宿遺跡発見と座散乱木遺跡発見の文章の類似。
・藤村は相沢を意識していた。(考古学へのファーストコンタクトや自転車など)
・1974年に石器文化談話会が仙台で結成。藤村登。芹沢の主張は現実化。
・1976年座散乱木遺跡第一次調査→
・1980年山田上ノ台遺跡→〔人工品と認められていなかった〕早水台遺跡が認められる
・1981年座散乱木遺跡第3次調査→〔芹沢門下でありながら星野遺跡を認めていない〕岡村学説が現実化
・ハンドアックス問題は忘れられた。
・80年以後は、芹沢主張のチョパー、チョッピング・ツール文化の遺跡(志引遺跡、中峯C遺跡)と岡村道雄の主張する斜軸尖頭器石器群遺跡(座散乱木遺跡第3次調査・馬場壇A遺跡第1~6次調査)が競うようにして発掘され、藤村によって相応の石器が発見される
・80年代後半には、馬場壇A遺跡第4
~6次調査や薬莱山遺跡群の石刃石器群・・・編年研究の枠を打ち破るような先史時代人の行動論的な解釈を見せるような成果(山を越えて石器が接合)
・状況は、もはや疑いすら挟まないほど徹底されて定説化されつつあって、それは周到な準備と綿密な計画のもとに実行されなければ実現できず、一個人の力で実現することなど到底不可能な事態。
・90年代になって岡村が前期旧石器にかかわらなくなると、なぜか以前とは異なる年代の異常とも思える古さ、その発見の異常性、縄文石器特別のできない石器形態の異常性が重なり、90年代以前とは全く異なる状況に。→周囲から疑問の声→捏造発覚
【動機】
①ナショナリズムとしての日本人起源論
②学説証明
③個人的な欲望
【捏造遺跡において】
岩宿問題→①
座散乱木遺跡~80年代までの捏造→②と③
90年~→②<③
【まとめ】
①この捏造事件には、昭和24年の敗戦直後に生じた「旧石器」存在問題が隠されている。
②それは、日本列島に前期・中期旧石器問題はあるのか、明石原人は存在したのか、日本の後期旧石器と呼ばれる石器文化は果たしてヨーロッパと同じ時期・同じ石器文化の「旧石器文化」であるのかという日本民族の起源論問題。
③これらの証明について、現状では前期・中期旧石器の証明には明らかな遺跡がほとんどない。
④日本旧石器学会によって喧伝されている竹佐中原遺跡・入口遺跡・金取遺跡などは、中期旧石器としては検討すべき点が非常に多く、中期旧石器の存在を即断することはできない。
⑤聖嶽捏造問題(人骨の出土した大分県の遺跡が捏造であったという事件。別府大学教授の賀川光夫が自殺しており、これについては週刊誌と遺族の間で裁判が行われた)と明石原人問題については本稿では触れることができなかったが、捏造問題と複雑に交錯する問題の一つである。
⑥後期旧石器文化の存在問題は、ヨーロッパの石器文化との比較分析が必要であるが、現状では、その分析は全くなされていない。
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※旧石器:正しくは旧石器時代の石器
※原人の知能では押圧剥離は不可能
→なので、考古学研究者たちは、日本だけに60万年も前にすでに縄文時代と同じ程度に進化したヒト(原人でも旧人でもなく)が存在していて、石器の埋納やヒトの埋葬などの宗教的活動や儀礼をおこなっていたという驚天動地の説を平気で唱えていた。時間の概念。
・アフリカのミトコンドリア・イブ等の説ではなく、日本でも原人→旧人→新人と独自に進化したと。岡村に限らず、日本列島内では前期旧石器時代→中期旧石器時代→後期旧石器時代と時代が連続???んなわけないだろ。
・相沢は、岩宿遺跡を発見したにもかかわらず研究者たちに「利用」され、不遇だった。
・藤村は、研究者たちに「利用される」ふりをして彼らを騙し、落とした。相沢の肩を持ち、かつ「前期旧石器」を認められずに「長介石器」「神様石器」と揶揄された芹沢を敬愛し師と仰ぎ、彼の望みを実現してリベンジを果たさせようとした、詐欺師。
1999後半
・2000にも国際フォーラムを開くだろう、〔その前に?〕藤村は100万年前の遺跡を発見するだろう、という噂を耳にして。
<ド・リュムレイへの手紙>日本の前期旧石器時代の石器について
・芹沢の発見した石器はほぼすべて偽石器。
・東北地方の90%以上の遺跡や石器を1人のアマチュア(Mr.ふじむら)が発見している。彼は超能力を持つと言われている。彼が指し示すところを掘れば石器が出る。彼が遺跡に来れば石器が発見される。
・彼が発見する前期旧石器のほとんどは日本の新石器時代(縄文時代
)の石器と全く同じか、偽石器である。たとえば押圧剥離がみられ、石鏃の未完成品であると考えられる。
・私は、藤村が石器を埋めているのだと考えています
・どうか利用されないで。
・由々しい問題なので、今年中に解決したい。
・雨女晴れ男、特に東北にはマヨイガの三浦何某の妻、仙台には仙台四郎。藤村が「当たり屋」と片付けられてしまう余地がある。マヨイガと仙台四郎、藤村との共通点は「少し足りない」こと(学者たちは藤村を「大学で教育を受けていない、石器の実測図もかけず説明もできない、石器が何たるかを全く分かっていない、ただの発掘する人」と内心蔑んでいた)。
・捏造によって考古学崩壊したわけではなく、捏造によって考古学が崩壊していたことが明らかになった?
・考古学は科学ではなかった。解釈する学問。「層位は型式に優先する」ので、その地層から出土した以上、論より証拠、その時代のもの。その時代がいつかって? 地層は地層学の人が決める。〔地層学の人が科学的に測定し決定した〕地層に従っているわけで、そこから出た石器(や遺構)も科学的! (地層学にタダ乗り) 僕たち悪くないもん!…という思いがあって責任を感じないのでは?
・大学系と行政系の二重構造。大学にも明治派と東北派。岡村は東北大→(東北歴史資料館)→文化庁(行政派)に華麗に転身?鞍替え?
・検証は明治が東北を使うという形…発掘は東北主導だったろうから(鎌田は明治だが)、腹いせ?報復?も含まれている感じが…。そして、告発者の竹岡・角張・小田は蚊帳の外、委員調査研究特別委員会には入っていたけど発言権は全くない。
・検証に〔携わること=事実を明らかにすることは求められていない〕による免罪。間違いはうやむやにする体質。
・検証は考古学を本来あるべき姿に戻す機会であったが、相変わらず「小学生でもわかる」ガジリの有無を検証するだけだった。そんなの初歩の初歩の観察で、それすらできていなかったのは言語道断。
・20年という長きにわたる捏造〔と権威付け〕だったので、それがスタンダードだと思って学び学者になってしまった世代もいるのでは?…この時期、竹岡が日本ではなくフランスで学び帰国したのは、疑惑→批判→発覚への流れ
・理論通りの出土物だから間違いない? いや、出土物見て理論組み立ててるじゃん? 理論通りになるのは当たり前というか、トートロジーだよね?
・検証(型式学)によることなく石器を地層順に並べて印象?感想?で編年表を作ることを目指していた。
・編年表(蓄積。地層順に出土品を並べて、自由自在に解釈をして時代?歴史?見る)…明治
・層位は型式に優先する(出土品が全て。いくら怪しくても無視。だって出たんだもん。論より証拠)…東北大
・検証(型式学)によることなく石器を地層順に並べて印象?感想?で理論を組み立てた。特に「理論考古学」。肝心の石器が捏造だったのに、「それでも理論は間違ってない!」とは何事か。
・見えないものを見ていた…そうすうことが罷り通る学問なのか? 捏造石器により遺跡が見え、理論が見えた。それどころか、自然の樹の根の跡が柱穴跡に見え、原人の生活まで見えてしまった。偽石器。自然の石が石器に見え、それはつまり作った人が見えるわけだろうし。
・考古学者は地層がどうとかいうことではなく、「目利き」になることが大事なのだが、見る目を養われている者は誰もいなかった。(あるいは藤村だけが見る目を持っていた?) あるいは「王様は裸だ」と誰も言えなかった?
・見る目のあるサイコパス藤村は的確に捏造を行い〔岡村が文化庁に移ってから、岡村論文ではなく梶岡だっけ?理論に方針を変えて〕捏造品の傾向を変えた? あるいは誰も気づかないので焦れた? 単に調子に乗った?
・捏造発覚は、考古学に戻るチャンスだったのに、相変わらず幼稚な(原始的な)方法(=藤村がつけた捏造痕跡をチェックする)による検証にとどまり、石器そのものを検証する考古学的手法(型式学)をとらなかった。
・剥離技術の種類
①ハンマーストンによる直接打撃
②ソフトハンマー(骨とか)による直接打撃
③間接打撃(ノミ(骨とか)を(石で)コンコン)
④押圧剥離
・組み合わせは6種類。HD HI HP SD SI SP
①ハードハンマーH②ソフトハンマーS、③直接打撃D④間接打撃I⑤押圧剥離P
・それでも型式学という科学の受け入れを拒んでいる。自然科学的手法(脂肪酸分析、熱磁気残留、使用痕分析)はデタラメだった。
・反省文になってない。逆切れ、はぐらかし、免罪→自画自賛、責任転嫁、他人事、切り捨てなど。どんな形をしている〔ように見える〕か
vs.どうやって作られたか
・発掘当事者【東北大】騙された! 指導員【明治大】は何をしていたのか!
・納税者【国民】なぜ見抜けたかったの?
・検証指揮【明治大】>検証発掘【東北大】
・基礎工事(検証)ができてない上に幻の一階があり(捏造石器)、その上に二階(理論)が構築されていた。捏造が明らかになった以上、基礎や一階がない以上、二階が一階になるわけではなく、この場合すべてが消えてしまうのだ。二階は瓦解消滅。
・状況証拠(地層)を優先するというかそれが全て。証拠品(石器)そのものは見ないか疑惑を見つけても無視。
【彼らの考古学は時代の申し子】
・高松塚の報道から、マスコミによる考古学ブーム
・昭和30~高度経済成長・日本列島改造論・大規模開発により、大学主体の発掘調査が追い付かない→行政職員(教育委員会)による発掘。公立埋蔵文化財センターや財団法人の調査組織設立。
・緊急発掘とは、開発で遺跡を破壊する代償として、開発者に発掘費用を負担させて発掘調査を実施することである
・遺跡の保存とは?
①発掘優先 ②新奇なるものの発見 ③マスコミ・町おこしとの結合、④報告書も出さない見世物的考古学 ⑤突飛なオカルト的「学説」
・考古学者もマスコミも自治体も一緒に踊った。
・行政関係の「啓蒙的」な美しい博物館が建ち、研究者が出版する本は写真や、もっともらしい復元図にあふれた、ビジュアル的な〔実は蒙(バカ)とみなしている〕「大衆向き」のものとなって、考古学は学問から乖離していった。
・消費される文化としての遺跡
【決裂】
竹岡:似て非なるもの、月とすっぽんとはこのことです。早水台遺跡の石英粗面岩製の「石器」は単なる石ころです。
芹沢:岩宿ゼロ文化層や星野の石器を見て、「ただの石ころ」としか感じない人たちには、筆者はこれ以上説得する気は持ち合わせていない。
彼(=藤村)は高卒で、私の教え子ではありません。私の推薦で彼が何かの賞(=相沢忠洋賞)を受賞したが、よく考えずに推薦してしまったことは不注意だったかもしれない。今となっては、私の名前を出されることは迷惑だ。
ただし、藤村自身は、石器を発見する力は努力によるものと言っている。
☆生きるとは、生き抜くこと。
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山内(東大)縄文土器編年。これに強い影響を受けて、日本の旧石器時代研究が共時態分析(個々の遺跡、個々の文化で行われたことの復元)ではなく、編年作業にひた走った。
・しかし、第一人者だった山内に岩宿発見の報は届かなかった
・山内は岩宿を認めなかった
・丹生遺跡研究において、角田と対立し「この仇は必ず取る」と叫んで降壇した。
※編年表…何万年前は何時時代でどんな石器、みたいな表?
1949岩宿発見
↓
前期旧石器時代遺跡の発見競争
・1967珪岩製前期旧石器を発見し続ける芹沢に対して、早水台遺跡、星野遺跡(第五文化層以下)、岩宿0文化層の資料の中には人工は認められないと批判
↓
1972藤村登場
1975石器文化談話会結成
1976岡村仮説
↓
1976
石器文化談話会、座散乱木遺跡から動物型土製品など出土
1979
石器文化談話会、座散乱木遺跡から最古の縄文土器など発見
1980
石器文化談話会、座散乱木遺跡崖面から前期旧石器採取。
仙台市教育委員会、山田上ノ台遺跡で前期旧石器発見(5~6万年前)
1981
石器文化談話会、座散乱木遺跡で前期旧石器発見。「前期旧石器存否問題」にピリオド
1982
仙台市教育委員会、北前遺跡発掘調査(5~6万年前)
1983
多賀城市教育委員会、志引遺跡発掘調査(4~5万年前)
上高森遺跡調査団、上高森遺跡発掘調査(40万年前)
1984
東北大学埋蔵文化財調査室、青葉山B遺跡発掘調査(18万年前)。
大和町中峯C遺跡の年代測定(14~37万年前)
1985
東北歴史資料館、馬場壇A遺跡発掘調査。炉跡発見(13万年前)。
小田静夫「石器や年代などに疑問」
1986
東北歴史資料館、馬場壇A遺跡発掘発掘調査、ナウマンゾウとオオツノジカの脂肪酸検出。
小田&キーリーによる批判:宮城県の旧石器および「前期旧石器」時代研究批判(英文)
1987
岡村、文化庁へ。
多賀城市教育委員会、柏木遺跡発掘調査(4~5万年前)。㈶東京都埋文センター、多摩ニュータウン471B遺跡発掘調査(5万年前)
1988
石器文化談話会、高森遺跡発掘調査(20万年前)
1989
戸田・岡村・藤村ら、栃木県那須町七曲遺跡にて前期旧石器を採取。
1990
村田町教育委員会、村田町小泉東山遺跡発掘調査(9~10万年前)。
郡山女子短大、福島県西郷村大平遺跡発掘調査(4.5~5万年前)
1991
薬莱山麓遺跡群間で後期旧石器時代の石器が接合
1992
桐原遺跡調査団、群馬県大間々町桐原遺跡発掘調査(3~4万年前)。郡山女子短大、福島県福島市竹ノ森遺跡発掘調査(6~9万年前)
東北旧石器文化研究所設立。
藤村「相沢忠洋賞」受賞
1993
袖原遺跡調査会、尾花沢市袖原3遺跡発掘調査(10万年前)。
宮城県教育委員会、高森遺跡の年代測定を50万年前と発表。
郡山女子短大、福島県福島市竹ノ森遺跡発掘調査(11~13万年前)。
上高森遺跡調査団、上高森遺跡発掘調査(40万年前)
1994
上高森遺跡調査団、上高森遺跡発掘調査(50万年以上前)埋納遺構発見。
袖原遺跡調査会、袖原3遺跡発掘調査(35万年前)。
東北歴史資料館、高森遺跡発掘調査(50万数万年前)
1995
瓢箪穴遺跡調査団、岩手県岩泉町瓢箪穴遺跡発掘調査(4~5万年前)。
山形県埋蔵文化財センター、寒河江市富山遺跡発掘調査(非藤村関与)。
郡山女子短大、福島県二本松市原セ笠張発掘調査(20~30万年前)。
東北旧石器文化研究所、「相沢忠洋賞」受賞。
上高森遺跡調査団、上高森遺跡発掘調査(60万年前)埋納遺構発見。
1997
郡山女子短大、原セ笠張発掘調査(40~60万年前)。
袖原遺跡調査会、袖原3遺跡発掘調査(40~50万年前)
山形県袖原3遺跡と宮城県中島山遺跡出土の剥片が接合(直線距離で約30キロ。ただし山を隔てる)
座散乱木遺跡を国史跡に指定
1998
瓢箪穴遺跡調査団(東北旧石器文化研究所、福祉大考古学研究会)、瓢箪穴遺跡発掘調査(4~5万年前)。
総進不動坂遺跡調査団(札幌国際大・東北旧石器文化研究所・福祉大)、北海道新十津川町総進不動坂遺跡発掘調査(5万年前)。
竹岡:「前期旧石器」とはどのような石器群か
上高森遺跡調査団、上高森遺跡発掘調査(60万年前)、埋納遺構発見
上高森遺跡調査団、上高森遺跡発掘調査(60万年前)、埋納遺構発見。
中島山遺跡調査団、宮城県色麻町中島山遺跡発掘調査(10万年前)
1999
中島山遺跡調査団(東北旧石器文化研究所、福祉大考古学研究会)、中島山遺跡発掘(10万年前)
藤村・栗島、埼玉県秩父長尾根遺跡で石器発見。総進不動坂遺跡調査団、総進不動坂遺跡発掘調査(20
~30万年前)
東北大学総合学術博物館・東北大考古学研究室、福島県二本松市箕輪宮坂遺跡発掘調査(13万年前)。
上高森遺跡調査団、上高森遺跡発掘調査、日本最古(60数年前の層の3m下)の石器群発見。
芹沢傘寿記念国際シンポジウム(福祉大)
角張:前期・中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か
2000
埼玉県埋文調査事業団、秩父市小鹿坂遺跡発掘調査(50万年前)、柱穴と埋納遺構発見。
一斗内松葉山遺跡調査団、福島県安達町一斗内松葉山遺跡発掘調査(78万年前をさかのぼる可能性)
瓢箪穴遺跡調査団、瓢箪穴遺跡発掘調査(10万年前)
埼玉県埋文調査事業団、秩父市長尾根遺跡発掘調査(35万年前)
埼玉県埋文調査事業団、秩父市長尾根南遺跡発掘調査(30万年前)
埼玉県埋文調査事業団、秩父市長尾根北遺跡発掘調査(45万年前)
埼玉県埋文調査事業団、秩父市小鹿坂遺跡発掘調査(50万年前)
総進不動坂遺跡調査団、総進不動坂遺跡発掘(20~30万年前)
上高森遺跡調査団、上高森遺跡発掘調査(遺構群は78万年前をさかのぼる可能性)
下川田入沢遺跡調査団、群馬県沼田市下川田入沢遺跡発掘調査。
秩父で市制移行50周年記念「前期旧石器フォーラム」開催。
【岡村の独自見解】1976岡村仮説
1.「前期旧石器」と呼ばれる石器群を2つに分類
①珪岩製石器群…岩宿0文化層、星野第五文化層以下、大久保遺跡など
→基盤と同質のほぼ一種類の石材によって製作され、発掘トレンチ内では石器の包含層が水平・垂直分布ともに切れ目がなく連続している。石器は、羊羹のような形の原石を節目に沿って輪切りにするよう分割して、その素材の原石を変えない程度の剥離痕が周辺部に見られる。
②斜軸尖頭器石器群…群馬不二山・権現山Ⅰ、大分県早水台遺跡など
→数点から数十点の石器が小さなまとまりをもって出土し、石材は安山岩・砂岩・硬質頁岩など多種類にわたる。円盤状石核から剥離された剥片を斜軸尖頭器や削器に加工し、大型の剥片や礫を素材としたハンドアックス、ピック、チョピングツールが伴う。石器の剥離面のほとんどには明確なバルブやリングが見られる。
※珪岩製前期旧石器群は自然破砕礫(偽石器)であることを示唆。
→星野を認めていない(芹沢門下なのにw)
※斜軸尖頭器石器群は東北アジア地域に広がっているルバロワ・ムスティエ伝統(旧人の文化)と関係をもつと考える。
2.前期旧石器時代文化を整理
①最古の石器文化(約6万年前を大きく遡らない)
大分県早水台遺跡。←人工と認めている!
→円盤状石核、プロト・ルバロワ技法、ハンドアックスに似た両面加工石器や斜軸尖頭器などを組成とする。
②中部ローム下半部の石器文化(3~6万年前)
群馬県不二山、権現山Ⅰ遺跡、山形県上屋地(かみやち)・富山(とやま)遺跡、長野県福井洞第15層、愛知県加生沢(かしょうざわ)遺跡 ←富山遺跡を認めている!
→円盤状石核やルバロワ技法、ハンドアックス形の両面加工石器、ピック、斜軸尖頭器などを組成とする
③中部ローム上半部(立川ローム基底部)の石器文化(約3万年前)
福島県平林遺跡、栃木県向山遺跡、長野県石子原遺跡、東京都中山谷(なかざんや)・高井戸東遺跡など
→ルバロワ技法、円盤状石核、祖型石刃石核、プティ・トランシェ(小形のクリーパー?)、粗雑なナイフ形石器などを組成とする。
3.結論
大陸の石器群と比較すると、中部ローム下半期石器群(②)と中国大陸北緯35度~40度あたりに分布する丁村遺跡や周口店第1地点上層などの石器群とはきわめて類似し、このことは日本に間違いなく前期旧石器時代文化が存在することの考古学的な証拠となる。
また、立川ローム層最下層前後で、生産効率の低い円盤状石核などによる剥片の剥離から脱却して石刃の多量生産が始まり、石刃技法とナイフ形石器の完成によって安定した日本固有の後期旧石器時代文化が始まる。
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【事件後】
岡村:何度も氷河期になって大陸と陸続きになったのだから、70万年前までは出るはず!
竹岡:陸橋ができていたら、30万年前までは確実に出る。芹沢たちが発掘した大量の石を石器と偽石器とに分ければいい。
→芹沢養護の発言のはずが、芹沢側は受け付けない。何故なんだw 結局、人間関係は難しいというオチ